「スマートフォン」なのになぜ「スマホ」なのか?「スマフォ」じゃないの?~言語は恣意的にできている
先日、
こんな話題で社内が盛り上がりました。
「スマートフォンページ勉強会」というのを開催する直前、
私とデザイナーYが共同でレジュメをつくっていた時のことです。
私「あれ?『スマートフォン』の略語で、俺は『スマフォ』って書いてて、Yさんは『スマホ』って表記してんじゃん」
Y「ああそうですね、これはどっちかに統一しなきゃだめですね」
私「てか、統一もなにも、『スマートフォン』の略語なんだから、『スマフォ』でいいでしょ」
Y「いやいや滝井さん、違うんですよ。『スマートフォン』の略語は『スマホ』なんですよ」
私「えっなんでよ。どういう理屈で略語になると『フォ』が『ホ』に変化すんのよ」
Y「いや理屈はよくわかんないすけど、とにかく『スマホ』なんですよ。コレ見てください」
↓
Y「↑このGoogle trendで見れば、『スマホ』って言葉が使われてるのよくわかるじゃないですか。『スマフォ』なんて言葉誰も使ってないすよ」
私「ええ~。。。『スマホ』ってなんか語感がアホっぽくてイヤなんだよなあ。。。」
・・・というようなやり取りがありまして、
結論としては、私としては不本意ながら、
言語としてすでに流通している(してしまっている)「スマホ」という略語を統一で使うことにはなりました。
しかし、
「スマートフォン」という言葉の略語が、「スマホ」であるのは、
ロジックとしては一貫性が無いですよね。
「smartphone」という英語を「スマートフォン」と表記するのは、
「phon」という発音が、いわゆる「F音」であって、
カタカナ表記するするなら、
「ホ」ではなく、「フォ」とするのが合っていると考えるのが妥当だからでしょう。
さて、
「smartphone」という英語のカタカナ表記は「スマートフォン」とされているのは、まあ間違いないでしょう。
ではなぜ、その略語が「スマフォ」ではなく、「スマホ」なのでしょうか?
「スマホ」という略語を使うなら、本体の方も、「スマートホン」と呼ぶべきじゃないでしょうか。
しかし、世の中は「スマートフォン」「スマホ」という言葉の定義で固まってしまっているようです。
なぜなんでしょうか。
ということで、いろいろ調べたのですが、
実は、これといった理由はないんですね。
私と同じような疑問を持っている人は大勢いるみたいで、
検索結果にも、多くの推測がのっていますが、どれも根拠はなさそうです。
そう、理由はたいしてないんですよ。
まあ強いて言えば、日本語として「フォン」とは言えるけど、「フォ」という「止め言葉」は日本語っぽくないから、
という程度のことだと思われます。
このように、言語というのは、
実はまったくもって論理的にはできていないんですね。
「なんとなくみんながそう言っているから使っている」
というケースがほとんどなのです。
理屈じゃあないんですよ。
言語が論理的でない、という話をひとつあげてみましょう。
例えば、私たちは「犬」のことを「イヌ」と呼ぶわけですけど、あの動物のことを言い表すのであれば、幼児がよく言い表す言葉、「ワンワン」の方が実は論理的なわけです。
「ワンワン」と鳴くから「ワンワン」。
これにはそう呼ぶ必然性、理由が明確にあるし、誰にとってもわかりやすいですよね。
だけど、子どもっぽいからかなんなのか、幼少期を過ぎれば、「ワンワン」と鳴く人間好きな可愛いほ乳類のことを、私たちは「イヌ」と呼ぶようになります。
なぜ彼らを「イヌ」と呼ぶのか、必然性や論理性を感じていないにもかかわらず、です。
「犬」の語源は、
「寝ぬ」(いつも人間と一緒にいるから)とか、「去ぬ」(犬を追い払うときに言う言葉だから)、なのではないか、という諸説があったりしますが、この諸説自体なんとも納得感はあまりないですし、こんなことを意識して「犬」という言葉を使っている人もまあいないでしょう。
私たちが「犬(イヌ)」というよりも、3歳の幼児が「ワンワン」と鳴くから犬のことを「ワンワン」という方が、論理的で必然性があるわけです。
このように、記号としての「言語」は、その対象となる「モノ」に対して論理的な必然性を持ちません(正確に言うと、論理的な必然性がなく成り立ってしまうもの)。
これを、
「言語の恣意性」
と呼びます。
恣意(しい)性、というのは、「必然性がなく、勝手なふるまいをする」という意味ですね。
「スマートフォン」なのに「スマホ」という略語が使われることに、
ロジックはどうやらないようです。
まさにこの言語の恣意性のなせる技、といえるのではないでしょうか。
だって言葉はそもそも論理性も必然性もなく、勝手につけて勝手に使っていいものなんですから。
「スマートフォン」の略語が、「スマフォ」ではなく、「スマホ」でいいんですよ。みんなが使って使いやすくて、伝わるのであれば。
Yahoo!プロモーション広告やGoogleアドワーズ広告を運用していると、部分一致から大量に発生する「検索クエリ(実際にお客さんが検索したキーワードのこと)」を眺めている時、言語の非論理性を山ほど確認することができます。
私たちは言語でしか世界を切り取り、理解することができない、といわれています。
その世界の扉を開いている言語そのものが、論理的な必然性がなくできている、というところに、言葉の世界の面白さ、があると私はいつも感じています。
もしも言語が論理性があり、整然としたものであったなら、
Googleアドワーズ広告などは、まさにまったく人の手を介す必要のないものがすでにできあがっていたことでしょう。
しかし、
言語が論理的でないがゆえに、
いくらGoogleが進化したとしても、
ある商品やサービスを購入してもらうキーワードの登録候補として、
キーワードツールなどのツール類だけでは必ず不足することになり、
「人間の知力」
が介在する余地が残されているわけですね。
私たちが今後、検索キーワード広告でより高い成果をあげていくためには、
こんな言語の本質にせまってみるのも、面白いのではないでしょうか。
PS
この夏休みに、言語の恣意性などについて深い知識を得たい方は、
こちらの書籍がおすすめです。
「思考と行動における言語」
古典的な名著で、おそらくは、下手なマーケティング書を読むよりもはるかに、
検索エンジンからの集客のパフォーマンスアップに役立つことでしょう。
ということで、よい夏休みをお送りください~